結婚・子育て 育児記録

【育児記録3】息子が亡くなり1カ月が経ちました

子どもたちは妊娠23週6日で生まれてきました。娘は570g、息子は630g。「妊娠23週にしては大きい方だ」と言われましたが、それでも小さな体であることにかわりはありません。


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一般的に、体重1,000g以下で生まれてきた子どもたちは、超低出生体重児(超未熟児)と呼ばれ、医療機関の元でケアを受けなければ、生命の危機に直結します。私の子どもたちも出産後すぐ、NICU(新生児特定集中治療室)に運ばれました。

妊娠23週というのは、極めて「ギリギリ」な週数だそうです。私の子どもが入院している病院のドクターによると、妊娠22週で生まれた子どもは「ほとんど助からない」そうで、延命措置を実施しないとのこと。緊急入院した23週と2日の段階でも「今日生まれたら、助からない可能性も高く、助かったとしても重度の障害が残る可能性が高い」と説明を受けました。

それでも「最近は医療の進歩により助かる可能性が増えた」と言っていましたが、生存確率は決して高いとは言えず、主人が調べた限りでは、妊娠23週の子どもの生存確率は、50%を切っているそうです。

妊娠23週で生まれた子どもは肺が未発達なので、私が緊急入院した後は急な出産に備え、胎児の脳や肺を急成長させるための点滴を受けていました。それでも私の子どもたちは二人とも、未発達な肺に問題が見られました(娘は今も肺の状態が悪く、最新の酸素吸入治療などを行っています)。

初めは息子の肺から空気が漏れ、それからまもなく、娘も同じ状態になりました。2人とも肺に限らず、日々様々な問題が起き、娘の方は今、体がむくみやすいトラブルに見舞われています。体がむくんでいるのは、血液や腎臓の問題なのですが、むくみが続くと内臓に負担がかかるので、あらゆる治療を行っています。まだ視力も機能していないので、今後どんな形でトラブルか出てくるか、見えていない部分もたくさんあります。

無事生まれてきたとはいえ、妊娠23週(6カ月)は本来お腹の中にいて、母体から栄養をもらい、体を形成していかなければいけない時期です。その大事な時期にお腹の外に出て、自力で呼吸し、食事し、成長しなければいけない状況に置かれたので、それがいかに過酷なことか…

突如与えられた負担の大きさを考えると、なんて言葉をかけたら良いか分からないほど、申し訳なさでいっぱいになります。

緊急入院の直後にニューヨークに飛んできてくれた母に加えて、退院直後には主人の母(義母)も日本から応援に駆けつけてくれ、我が家はすぐに合宿生活のようになりました。毎日にぎやかで楽しく、おばあちゃんたちも初めての孫の姿を心から喜んでくれ、そんな状況の中にいて私は安堵してしまったのかもしれません。

気づけば頭の中から、「死」という選択肢が完全に消えていました。「重度な障害を持つ可能性」については毎日のように懸念していたのに、「死」についての考えは、頭の中から一切消えていたのです。

なぜかと言われたら…無事生まれてきてくれたこともそうだし、子どもたちの生命力を信じていたからだと思います。

子どもたちの状況は依然として、「critical(重篤な)」でしたが、容体が大きく変化することはなく、息子が亡くなったその日もナースに、「Is my son everything OK?」と聞き、「Yes, he is fine!」と満面の笑みで返事をもらったばかりでした。

おばあちゃんたちは、「心配は残るけれど、ひとまず帰って大丈夫そうだね」と、日本に向けて飛行機に乗り込み、数時間が経過したところでした。

「どちらからというと、お嬢さんの方が心配です」と言われましたが、息子は比較的安定していると言われたばかりでした。

おばあちゃんたちを送り出し、主人も私も、「色々あったけれど、今日から日常を取り戻して行こうね」と、主人は夕方、久しぶりに仕事関係のイベントに出かけ、私も久しぶりに原稿を書き、自分で夕食を作りました。おばあちゃんがお土産に持ってきてくれた鯵の干物を焼きました。それはそれは美味しい干物でした。

そして夕食が終わり、どっと疲れが出たのだと思います。9時前に眠りについてしまいました。そしてお手洗いに行きたくて11時前に目が覚めると、主人がiPhoneで誰かと話をしていました。電話が終わると、青ざめた顔で、「息子が危ないから、今から病院へ行くよ」と一言。主人にかかってくる前に、私のiPhoneにも病院から電話がかかって来ていましたが、熟睡し、全く気づいていませんでした。

寝ぼけていた私の頭は、一気に緊張状態になりました。

夜11時前に病院から電話がかかってきて、「今すぐ来てください」と言われるのは、よっぽどのことでもない限りありえません。この時私は、息子は危篤なんだと悟りました。だから今晩が山場になるかもしれないと覚悟を決め、上着やら携帯の充電器やらをカバンに詰め込みました。

急いでUberを呼び、Uberが来るまでの間、「どうか息子の命を奪わないでください」と、手を合わせ一生懸命祈りました。Uberに乗り込むと、普段自分から手をつないでくることがない主人が、私の手を力強く握ってきました。

Uberを降り、通い慣れた病院の廊下を渡り、NICUがあるフロアへ急ぎ足で向かいました。その間も、主人はしっかりと私の手を握ったままでした。

NICUに着くと、すぐにドクターが駆け寄ってきて、「Are you SEKI?」と声をかけてきました。そのドクターと対面したのは、その日が初めてです。ドクターはしきりに、「I’m sorry」と言っていました。私はその時もまだ、息子が危篤なのだと思っていました。「危険な状態です、I’m sorry」そう言っているのだと。

息子のベッドは一番奥にあるので、急いでそこまで向かいました。ベッドに着くと、呼吸器も何かも全て外された状態で、小さな小さな息子がポツンと、ベッドの上に置かれていました。もう保育器にも入っていません。

私は、ああ、もうダメなのかもしれない…と思い、「Can’t he live anymore?」と聞きました。すると主人から、「もう亡くなったって」という信じられない一言が返ってきました。私たちが到着する10分ほど前に、息を引き取ったそうです。

初めは、「亡くなった」の意味が理解できず、脳みそに届くまで時間がかかりました。そしてようやくその意味を理解すると、自分でも信じられないほどの大声で泣いていることに気づきました。その場に崩れ落ちるかもしれないと思ったのか、主人が私をしっかり抱きかかえていました。

私は主人の腕の中で、息子の名前を何度も何度も叫びました。

すぐに主人が、「息子を抱いても構わないか?」とナースに確認を取ってくれ、私たちはその時初めて息子の体に触れました。

ずっと触りたい、抱きしめたいと願ってきたのに、皮肉にも息子の肌に初めて触れたのは、亡くなった後。息子の体は、同じ人間とは思えないほど小さく、柔らかく、赤ちゃんらしい良い匂いがしました。

それからしばらく、私と主人は代わる代わる息子を抱っこしました。日本にいる父とFacetimeで話をし対面してもらい、ナースと共に息子の体を拭き、新しい洋服に着替えさせ…。

突如訪れた最後の親子の時間はとても静かで、体が深い海の底に沈んでいくようでした。

その後、息子を抱えてすぐ隣の保育器に入っている娘の元に行き、弟が亡くなったことを報告しました。

私たちは検死解剖を拒んだため、息子の直接の死因は分かりませんが、ドクターによると、「以前から肺から漏れた空気が少しお腹にたまっていたが、その量が急に多くなり、膨れ上がったお腹が心肺を圧迫したのではないか」と。

実際、亡くなった後の息子のお腹はカエルのようにパンパンに腫れ、今にも破裂しそうなほどでした。とても苦しい最期を迎えたのではないかと思います。せめて看取ってあげたかった。よく頑張ったね、生まれてきてくれてありがとう、私たちに幸せな13日をありがとう、また必ず会おうね、天国で幸せに暮らしてねと伝えられていたら。

息子の容体が急変してからドクターたちは力の限りを尽くしてくれたそうですが、すぐに心肺が停止してしまい、もうどうすることもできなかったそうです。

保育器のそばで息子との対面を果たした後、別室に移され、「次のプランはどう考えているか?」とナースから質問を受けました。次のプランとは葬儀のことです。つい1時間前まで、亡くなるなんて想像もしていなかったので、次のプランなど考えているはずもありませんが、主人が冷静に、「日本人なので火葬にしたい」と答えていました。

その後ナースは気を利かせ、親子3人の時間を作ってくれました。私はすぐ、ずっと息子に飲ませたいと願ってやまなかった母乳をあげるために、その場で少しだけ絞り出し、指につけて息子の唇にちょんちょんとのせてあげました。出産直後から母乳は出し続けてきましたが、子どもが小さくまだ飲めていなかったので、息子は母乳を知らないまま天国に旅立ってしまったからです。

「ママの母乳だよ、ずっと飲ませたかったんだよ」。
息子にそう声かけながら飲ませてあげました。

その夜、息子はナースの手で霊安室に運ばれました。その翌日から私たちは急いで葬儀屋さんと、お経を唱えてくれるお坊さんとコンタクトを取り(ニューヨークに、日本人のお坊さんがいらっしゃいます)、1週間後、私と主人の2人きりでニューヨーク市内の火葬場に地下鉄で赴き、息子との最後の対面を果たし、そして見送りました。

1週間ぶりに対面した息子は、亡くなった直後よりも穏やかな顔をしていて、安心しました。裏面に息子へのラブレターを記した私たちの写真、お菓子や息子用にと頂いた洋服、おもちゃなどを一緒に箱に収め、焼いてもらいました。

 
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葬儀の前日、猫のわらびも、息子との別れを惜しんでいるようでした。

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 葬儀はよく晴れた日に行われました。

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息子が亡くなってしばらくは、生きる希望を失いかけるほど、苦しい苦しい時間が続きました。亡くなった意味を考えては答えが見つからず、どこにこの悔しさ、怒り、悲しみをぶつけたら良いのか…自分の感情とどう向き合って良いのか分からず途方にくれました。

私はこれまで身内を亡くしたことが、ほとんどありません。唯一今年、祖父を亡くしましたが、100歳間近だったことからある程度覚悟もできていたので、今回の「亡くなる」経験とは少し事情が違います。私にとって、初めての経験に近い身内の死が、自分の息子になってしまったのは、ひどく悲しいことです。

息子が亡くなったとはいえ、私たちには生活があるので、毎日どこかしらに行き、誰かしらに会わなければいけません。

事情を知らない人から、「子どもたちはどう?」と聞かれ、「一人は亡くなりました」と答えなければいけない悔しさ。息子に関する荷物の片付け。保険会社から来る息子名義の書面。街中で見かける男の子。双子。そのどれもが私たちにとっては辛く、黙っていても涙が溢れ出てきました。

主人も、「自分の分身がいなくなったようで寂しい…」と落ち込んでいました。息子と主人、娘と私はそれぞれ血液型が一緒で、「きっと旅行にいったら、パパと息子がインドアに楽しんで、ママと娘が外でお買い物を楽しんできたりするんだろうね(笑)」とよく話していたものです。

何より辛かったのは、もうこうした未来を見てはいけないことです。

子どもたちがNICUに入ってしまった状況は辛いですが、退院後を想像することで、私たちは救われていました。しかし息子が亡くなり、その夢を見ることは許されなくなってしまったのです。

双子用のベビーカーを買うことも、色違いの洋服を着させることも、家族4人で食事に行くことも、1年ごとに息子の成長を喜び写真を撮ることも、もう何も叶わない。この事実を受け入れるのは、とてもとても辛いものでした。

さらに息子は、黄疸を防ぐためのブルーライトを当てられている時間が長く、目も隠されていたため、私たちが息子の目を直接見たのは2回しかありません。つまり、ほとんど顔を覚えていないのです。これもとても悲しいことです。人間の記憶とは不確かなもので、私たちの頭の中からは、愛息子の顔がどんどん消えていっています。

唯一確かな記憶としてあるのは、目を開けた瞬間を収めた数枚の写真と、亡くなった後の顔。悔しいですが、今、ハッキリと私たちの中にある息子の顔は、これしかないのです。

息子が亡くなり、1カ月が経ちました。「時が解決する」とはよく言ったもので、ようやくこの事実を受け入れ、前を向けるようになってきました。いつも息子は私たちの心の中にいる。そう考えると、自然と穏やかな気持ちになれます。

あとは娘が良くなってくれたら…と願うばかりですが、娘の状況もまだまだ楽観視できるものではなく、日々刻々と変わる状況に、毎日心臓が止まりそうなほどの緊張が続いています。

息子が亡くなったのが夜遅くだったので、朝1回だけにしていた病院通いを、朝と晩の2回に変えました。朝起きてからと、寝る前に娘の状態をチェックしにバスで病院へ行き、帰って布団に入ります。四六時中、iPhoneの着信音は大きめに設定しておき、いつ電話がきても反応できる状態にしています。

また頭の中で、娘が退院した時のポジティブなイメージと、「娘さんが危険です」と電話が来たイメージを交互に持つようにし、常に感情をニュートラルに保つようにしています。

そして娘の元を訪れる時は、これが最後になっても後悔しないようにと、その一瞬一瞬を目に焼き付けるようにして見つめています。

本当は、ひたむきに闘っている小さな命を前に、娘の姿を目に焼き付けるなんて酷いことをしなきゃいけないことが、バカげていることは分かっています。そうしなくて済むのならどれほど良いか。でも私たちは、どうなるか分からない状況の中にいるので、覚悟を決めておかないといけません。もちろんその覚悟を決めた上で、医者を信じ、娘を信じ、一生懸命祈り続けます。娘を諦めることなんて、絶対できないので。

私たちにできることは、限られています。毎日病院に行き、娘の手を握り、声をかけてやり、私は母乳を出し続ける。夜中も含め、3〜4時間おきに搾乳機を使い母乳を出し、娘がたくさん母乳を飲めるようになった時のために、一つ一つ袋にしまい、冷凍保存しています。

悔しいですね、親としてできることが、これくらいしかないというのは。

私たちをはじめ娘を見守ってくださる多くの方々の祈りと愛、そして息子との間で結ばれたであろう絆により娘が無事成長し、退院できることを願うばかりです。


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