8月26日。
体重630gで生まれた息子が、生後わずか13日で帰らぬ人となってから1年が経ちました。
一周忌と初盆を兼ねて
夕方、一周忌と初盆を兼ねて、葬儀からお世話になっているお坊さんに来ていただきました。
▲娘も一緒に手を合わせました
今日は、長かったこの一年を振り返ります。
息子が亡くなった日のことはここにも書き留めています。
【育児記録3】息子が亡くなり1カ月が経ちました : Purple and the City
忘れられない一日
息子の亡骸と対面した日、私はあまりに泣いたため、酸欠に陥りひどい頭痛とそれによる嘔吐の連続で明け方まで苦しみました。授乳中につき、普段は体調が悪くても市販薬は一切使いませんが、その日ばかりは見かねた主人に説得され、何錠か強い痛み止めを服用しました。
体調が落ち着いたら今度は激しい喪失感と虚無感に襲われ、それが何日も何日も続きました。
クローゼットを開ければ「息子さんに」と頂いた娘とお揃いの洋服があり、亡くなってから数日後に届いた保険証にはしっかり息子の名前が刻まれており……。
私は家に残された息子のものを見るたびに、悲しくて悔しくて、すべて破り捨てたい衝動に駆られていました。(今では息子の名前入り保険証は大切な宝物です!)
食欲はなく体調も決して万全とは言えませんでしたが、NICU(新生児集中治療室)に入院している娘も深刻な状況が続いていたので、気力だけで朝晩2回の通院をこなしていました。
その間に葬儀の準備。担当者に病院まで来てもらいそこで打ち合わせをしたり、大急ぎでNYにいる日本人のお坊さんを探しお経を唱えていただいたり。暇だと辛さが増していたと思うので、毎日慌ただしかったのはありがたかったです。
葬儀の日、スタッフの指示に従い私と主人が押した着火ボタンで、息子は炎に包まれ骨と灰になりました。
激しく燃え盛る炎と、ゴオオオオオオオオと、まるで死者の怒りと悲しみが混じり呻き声となったかのような轟音。今でもハッキリと覚えています。
ボタンを押した直後、私はすぐ後悔しました。本当にあの小さな体に、これほどまでの炎が必要なのか。炎の中に飛び込み、息子を助け出したいとさえ思いました。お願い!燃やさないで!やめて! と叫びたくなる気持ちを必死に押さえ、声にならない声でその場に手をつきながら泣いたことを覚えています。
当時、事情を知っている人に会えば次々と、「I’m sorry」と言われハグをされました。
ありがたいと思いつつも、一生懸命前を向こうとしている時にそうされると一気に現実に引き戻される気がして、いつも心の中では「放っておいて!!!!!」と叫んでいました。
でも相手は悪くないですし、善意でしていただいているんだと思うと、いくらこちらが失意のどん底だとしても失礼なことはできないと、その言葉とハグを「Thank you」と受け入れながらもひどく落ち込んだものです。
そうした「お悔やみの言葉」から逃げたくてFacebookにログインする機会をうんと減らし、NYに住んでいる友人とも距離を置きました。
今でこそ「息子は亡くなりまして」と自ら言えるようになり、友人とも積極的に会えるようになりましたが、あの時はとてもそんな心の余裕はありませんでした。
出生届と一緒に出した死亡届
出生届と一緒に死亡届を出した日、受付の人に不思議な顔をされ理由を説明しなきゃいけなかったこと。
Uberの車中で、「なぜ病院に?」と質問され「娘が入院している」と答えると、「初めての子? 子どもは一人?」と聞かれしぶしぶ答えたこと。そしてそこから生まれる微妙な空気。次第にそれに耐えられなくなり、子どもは一人しかいないと言ってその場をやり過ごすことも増えました。悔しいけれど。
当時は何もかもが辛く、猫のわらびと遊ぶこと、娘に会いに行くこと以外全く楽しみはありませんでした。
息子が亡くなったと知った方から、「あなたの息子さんは幸せだったと思いますよ」と言われるたびに私は、「どうして誰も息子と会ったことないのに、そう言うの?」と主人に当たり散らしました(主人は、「会ったことのない人が息子は『幸せだったと思う』って言ってくれるなんて嬉しいことじゃないか。僕らの家族だったら幸せに見えるってことなんだから」と言っていました。さすが17歳年上。私よりもはるかに大人です)。
「紫都さん、無理だけはしないでね」と言われた時には、「私が無理しなかったら誰が娘を守るんですか? あなたがNYまで来てくれますか?」と感情が爆発しそうになりましたが、それも堪えました。
当時は、怒りをぶつけられる対象を必死に探していた気がします。「誰も悪くない」と言われるたびに、誰かが悪かったら、誰かを責められたらどれだけ楽だろう。ずっとそう思っていました。
今となれば、たくさんの思いやりに対しなんて失礼なことを考えていたのかと、自分のことながら呆れてしまいますが、当時はそれだけギリギリの精神状態だったのだと思います。
「思います」と書いたのは、人間の防衛本能なのか、記憶が欠落しているところがたくさんあるからです。
そういえばあの時私どう思ってたんだろう? どうやって日々を過ごしてたんだろう? と考えても、息子が亡くなって最初の数ヶ月は、思い出せないことがたくさんあります。
きっとこうやって人は、大切な人を失った悲しみから立ち直っていくのかもしれませんが、一方で時間が経ったからこそ、気持ちに折り合いがつけられなくなることもあるんだなぁと最近は感じています。
いつも娘を守ってくれている息子
特に思うのは、一人で歩いている時。歩いていると、突然涙が止まらなくなることがあります。
でも私は一度泣いたら、感情に任せて気持ちが落ち着くまで泣き続けることに決めています。
自分の子どもを亡くして、「私はもう大丈夫!」なんて言える母親がいるはずありません。
自分の気持ちに正直に、泣きたいだけ泣く。少なくともその間は、息子のことだけ100%考えられる誰にも邪魔されない二人の時間だから、それを大切にしていきたい。今はそう思っています。
息子の肉体はなくなってしまいましたが、彼はいつも私、娘、主人の心の中にいて、私たちを守ってくれているはずです。その証拠に娘はここまで元気になりましたし、私も主人も猫のわらびも大きな病気もケガもなく、ここまで過ごせています。彼は関家の長男として、いつも頼もしく私たちを守ってくれているのだと思います。
私も母親として彼の幸せを願い、そしていつか、娘の笑い話や家族の思い出話をたくさん持って会いに行けるよう、準備するまでです。何十年と先の話だろうけれど、それまで待っててもらいます。私もその日を楽しみにしています。
できたらその日まで、赤ちゃんでいてくれたらいいな。そうしたらずいぶん遅くなってしまったけど、オムツを替えたり添い寝をしたり、きっと彼が望んでいたことをしてあげられます。
でも対面した時に、息子が50〜60歳のおじさんになってたら、それはそれで楽しいですね♪ そうしたら毎日一緒に飲んだくれることにします(笑)。
かわいいかわいい息子へ
たった13日だったけど、あなたに会えて嬉しかった。私たちの元に来てくれてありがとう。
ママはいつもあなたの幸せを願ってるからね。たくさんのお友達に囲まれて、楽しく元気に過ごせていますように。いつかあなたの元にいくまで、一生懸命お姉ちゃんのこと守るからね! ママとパパがこれからもお姉ちゃんと楽しい人生を歩んでいけるよう見守っていてね。Lovin’ you♡
いつもブログやFacebook、LINE等を通じて応援してくださる皆さまへ
本当にありがとうございます。
私たち夫婦にとっては、わずか13日にでも息子がこの世で生き頑張った事実を、一人でも多くの人に知ってもらえたら、忘れないでいてもらえたら、それが何より幸せです。
これからも温かく見守っていただけたら嬉しいです。
わらびへ
私たちが一番大変な時に、いつも笑わせてくれてありがとう! あなたがいなかったら、私たちはもっと苦しい毎日を送っていたと思う。これからも頼りにしてるよ^^ わらびお姉ちゃん♡