LITTLE PUMPKIN インタビュー

【Interview Vol.8】体重572gで生まれ3歳で脳性まひと診断された娘、妹思いの息子へ。「人に頼ることを恐れないで」—新本牧子さん—

沖縄で生まれ、小さい頃から引っ越しが多かったという新本牧子さん(以下、牧子さん)。京都やフィリピンでの生活を経て15歳で沖縄に戻り地元の大学を出た後、単身でスペインに渡り、スペイン語教育を学びました。日本に帰国後、仕事を通じて知り合った旦那さんと結婚。すぐに長男に恵まれ、3年後には長女を授かりましたが、妊娠25週で突然破水。緊急帝王切開により娘さんは、体重わずか572gで誕生しました。その後数ヶ月の入院生活を経て自宅生活が始まりますが、3歳の時に発育不全を理由に「脳性まひ」と診断されます。現在は、旦那さんの東京転勤に伴い仕事を辞め専業主婦になった牧子さん。「生き甲斐だった」という仕事から離れ、専業主婦になったからこそ気づけたゆっくり子育てと向き合える幸せ、「人に頼ることを恐れない子になってほしい」と願う母としての気持ちを聞きました。

<Profile>
新本 牧子(にいもと まきこ)さん
9歳の男児、脳性麻痺で肢体不自由の7歳の女児をもつ2児の母。衣食住の向上、スペイン語、ピアノ、フラダンス、絵本の研究、最近は着付けの勉強などが趣味。育児に奮闘しながらも、日々の暮らしを味わい、楽しむことを模索中の専業主婦です。

小学1〜6年生で

4回の転校を経験

—ご経歴を教えてください。
両親とも沖縄出身で、私も沖縄県那覇市で生まれました。父の仕事の関係で引っ越しが多く、小学1〜6年生の間に石垣島、京都、名古屋、フィリピンで4回転校を経験しています。沖縄本島に戻ったのは中学3年生のときで、それから大学卒業まで沖縄で過ごしました。大学では‪英語言語文化を専攻しましたが、2年生に上がるときにスペイン語言語文化へ専攻を変えました。‬‬‬‬‬

—スペイン語に興味を持ったのはどういう理由からでしょうか?
‪フィリピンで暮らした経験が大きいと思います。フィリピンでは日本人学校へ通っていたのですが、少しずつ語学への興味が出てきて、帰国後は英語以外の外国語も学んでみたいと思うようになりました。なかでもスペイン語は、タガログ語(※フィリピンのうち首都マニラを含むルソン島南部を中心に用いられている言語で、英語とともにフィリピンの公用語として採用されている)や日本語の響きに似ていることから興味を持ったんです。‬‬‬‬‬

大学ですっかりスペイン語やスペインの文化にハマってしまった私は、絶対に留学したい! と思うようになり、卒業後、単身でスペインへ渡り2年間学校へ通いました。当時は、日本に帰ったらスペイン語教師になりたいという夢があったので、学校では「外国語としてのスペイン語教育」課程を専攻しました。‬

頑張ることが必ずしも美ではない

学んだスペイン生活

—スペインでの暮らしはどうでしたか?
留学前に‪一度研修でスペインを訪れ、その時から食文化、街並み、人々の大らかさに感銘を受けていたのですが、‬留学したらより一層惹かれて。このままスペインで暮らそうか……と考えたこともありました。でも親も心配していましたし、奨学金をいただいていたので2年で帰国が条件ということもあり、卒業後は日本へ戻りました。‬‬‬‬‬

—学校生活はどうでしたか?
‪‪スペインの学校では2年目に修士論文を書くのですが、これが外国人の私にはとても大変でした。でも国際舞台で活躍できるような人になりたい! スペイン語の教師になるなら一番の教師になりたい! という目標があったので、人一倍努力しようとは思っていました。それにもともと頑張ることは苦というより好きな方なので、大変でしたけれど、その生活を楽しめたかなと思います。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬

また学校では、「頑張ることが必ずしも美ではない」ということも学びました。

—それはどういうことでしょうか?
学校でできたスペイン人の友人たちは‬いつも私に‬、「せっかくスペインにいるのに机に向かっているだけなんてもったいない! 留年してもいいじゃん! 今を楽しんだら?」って言ってきて(笑)。確かにそういう考えもあるなぁ、もっと今を楽しもうとするのも大事だなぁと考えさせられました。

教師は一度諦め

帰国後は企業に就職

—帰国後はどうされたのでしょうか?
帰国して沖縄に戻る頃には、日本の社会も知りたいという気持ちが芽生え始めていたので、一度教師の道は諦め、就職することにしました。

スペイン語教師は、主に大学での就職になります。私は全く社会経験がないままスペインへ留学したので、これから就職し社会に出ていく大学生に対し、生きたスペイン語が教えられるのか不安になってしまって。せっかくなら社会に出たときに役立つスペイン語を教えられる人になりたい。そういう気持ちがあったので、一度その夢は諦めることにしました。でも、いつかまたその夢を叶えてみたいとは今でも思っています。‬

—そうして日本の企業へ就職したんですね。
はい。ちょうどその時、「米州開発銀行(IDB)」(※中南米・カリブ海諸国の経済開発を促進するため、1959年に米州機構会議で設立が決定した多国間開発金融機関)の総会が沖縄で開催されることが決まったので、その実行委員会に就職しました。そこはいろいろな会社からの出向で成り立っていた組織で、夫とはその仕事を通じて出会いました。

当時はほとんど接点がなかったのですが、‪無事総会が終わると、私は夫が元々所属していた会社で働くことになり、そこで同じ部署に配属されました。私は臨時職員だったのでその後職場を離れたんですが、別の会社へ移るタイミングで彼が声をかけてくれて。それをきっかけにお付き合いが始まり、結婚することになりました。‬‬‬‬‬

妊娠25週で

体重572gの女の子を出産

—お子さんを妊娠したのは、いつ頃ですか?
結婚してすぐに男の子を妊娠、出産しました。その子は健康優良児だったので次の子も問題ないだろうと思っていたのですが、その3年後に誕生した長女は、体重わずか572gで……。

—詳しく教えてください。
‪妊娠中、6か月の検診を終え「順調」と言われた矢先のことでした。仕事中に突然破水してしまったんです。その時はまさか破水しているとは思わず、周りも私も、電話口での病院の先生までもがただ尿漏れしただけだと思っていました。でも、一応診察しに来てという指示もあり、自分で車を運転して病院へ行ったんです。私がお世話になっていたのは個人病院だったのですが、先生は私の状況を見るなり、「これはまずいぞ」と。‬‬‬‬‬

その後すぐ夫も駆けつけ大きな病院へ救急搬送されると、可能な限りお腹で育てられるようにとそのまま入院し絶対安静を強いられました。ところがそれから5日後、羊水がほとんど残っていないことが判明し、胎児への健康が心配され緊急帝王切開になりました。妊娠25週のことです。

生まれたばかりの頃の一枚。体重は600g弱、身長は30cmほど。

‪—それは本当に大変でしたね……。出産までの5日間、どんなことを考えながら日々過ごしていましたか?‬‬‬‬‬‬
私自身は、予定日までお腹で子どもを育てると信じて疑わなかったので、早産になることは全く予想もしていませんでした。信じられない思いばかりで、正直何を考えていたのか覚えていません。ただ頑張れ、頑張れとお腹の子に声をかけていたと思います。‬夫は、‪救急車に乗る前に担当の先生から、「覚悟を決めなさいよ」と言われたのを、今でも鮮明に覚えているそうです。‬‬‬‬‬‬

入院から5日目に出産したとき、不思議と私には娘の声が聞こえたんです。もちろんまだ泣くことはできませんが、私の耳にはハッキリと、「ふえ〜」という小さな悲鳴のような可愛い声が届きました。それでこの子は助かったと確信して……。涙が止まりませんでしたね。娘はすぐNICU(新生児特定集中治療室)に運ばれてしまったのでその場で対面することはできませんでしたが、早く娘に会いたい、ただその一心でした。

—その後、お子さんと対面されてどうでしたか?
当日は処置や手当があり対面は許されず、初めて面会できたのは出産翌日でした。娘は小さな保育器の中で肌が濡れ、まるで生まれたばかりの子犬のようで。その姿を見て、いろいろな複雑な思いを抱きながら、私はこの子のために生きよう! だから神様、助けて! と祈ったのを覚えています。今でも何か辛いこと、どうしようもなく逃げたくなることが起こったときは、その時の気持ちを思い出して、自分を奮い立たせています。

3歳で脳性まひと

診断を受ける

—NICUにはどのくらい入院したのでしょうか?
NICU、GIU(新生児治療回復室)合わせてちょうど半年です。NICUには3か月ほどいました。

―娘さんが退院し、一緒に暮らすようになってどうでしたか? 特にお兄ちゃんの反応をお聞きしたいです!‬‬‬‬‬‬
お兄ちゃんは本当に偉いと思うのですが、普通にその生活を受け入れてくれました。退院したとき娘はまだ栄養チューブを付けていたのですが、それを見て「かわいいね」と言ってくれて、ホッとしました。今でもとても可愛がってくれます。マイペースで優しく、頼もしいお兄ちゃんです。

現在もきょうだい仲は良く、娘さんに合わせて親子3人ゴロゴロ遊ぶことも多いそうです。

—微笑ましいお話ですね。退院後の予後はどうでしたか?
‪酸素ボンベはちょうど退院日に取ることができましたが、栄養チューブは退院後も半年間装着していました。肺の炎症を和らげる吸入器も同じです。入院中に未熟児網膜症のレーザー治療を2回受けたので‬今のところ目は見えているようですが、後遺症で強い斜視が残り、現在も治療を続けています‬‬‬

‪娘に障害があるかも、と思ったのは3歳のときです。なかなか座ることも歩くこともできずにいたのですが、早産でただ発達が遅れているのだと思っていたんです。けれど3歳になったくらいで主治医の先生に障害手帳申請してみたら? と言われたのがきっかけで。先生もハッキリとは言いませんでしたが、おそらくこれは脳性まひですね、と診断されました。‬‬‬‬‬

‪娘の場合、正直見た目は普通っぽかったので、先生も障害名をつけることには戸惑いがあったようです。でも3歳というのは一つの節目らしく、3歳を過ぎても発達が見られない場合、診断名をつけると説明されました。現在娘は自力で立つことも座ることもできず、食事、排泄、移動とすべての生活に介助を必要としています。‬‬‬‬‬

「沖縄の海でパパと一緒に砂の感触を楽しんでいる娘。立つ練習も一緒に頑張っています。」(牧子さん)

—そうだったんですね……。私には想像もできないほど大変なご苦労もあるかと思います。これまでを振り返り、どのようにご自身やご家族と向き合ってこられたか教えてください。
‪もちろん娘のことで大変なこともありますが、子どもを授かったのは本当に幸せなことなので、私はいつもその幸せを楽しみたいと思っています。大変なことや辛いこともひっくるめて、神様からの贈り物。そう思‬い、大切にしています。‬‬‬‬‬

あとうちは、お兄ちゃんの存在にすごく救われていると思います。お兄ちゃんの甘えたい盛りのときに娘が生まれたので、二人の面倒を見るのは肉体的にも精神的にも大変なこともありましたが、お兄ちゃんを育てた経験があったからこそ、娘のことがあってもあたふたせずに済んだように思います。今もお兄ちゃんの存在で癒されるというか、客観視できるというか、そういう意味でもすごく助けられていますね。

—日々の子育てのなかで心がけていることはありますか?
‪どうしても娘に手がかかってしまうので、お兄ちゃんにも寂しい思いをさせない、二人とも愛情をたっぷり感じてもらえるようにと意識しています。‬‬‬‬‬‬

‪基本は前向きでいたいと思っていますが、やはりどうしても、なんで娘は障害を背負ってしまったんだろうと悲しくなったり、もどかしくてイライラしたりすることもあります。そういうときは、なるべく一人になれる時間を家族に作ってもらい、リセットしています。また可能な限り、趣味に割く時間をとれるようにも努めています。‬‬‬‬‬

「東京に越してきて、私と娘が桜で遊んでいるところです。沖縄の桜は緋寒桜という種類で本土のような散り方はしないため、初めて見る散り桜に娘は大興奮でした」(牧子さん)

人に頼ることを

恐れない子になってほしい

—今は旦那さんの転勤で、東京暮らしなんですよね。
はい。夫の転勤に伴い大好きだった仕事を辞め、今は東京で専業主婦をしています。沖縄では、娘が生まれてから2年間お休みをいただいた後、契約社員としてスペイン語に関われる仕事を週3日していました。当時は職場に復帰できるとも思わなかったのに、周りのメンバーや上司が、私のライフスタイルに合わせた時間制を作ってくれて……。今でもお世話になった皆さまにはとても感謝しています。

仕事をしながらの子育ては大変なこともありましたが、一方で自分のスキルを磨きつつ、家庭を離れて自分のリズムでタイムマネジメントできることはなんて素晴らしいんだ! と感動しながら、復職前よりも充実した時間を過ごしていました。

—今は仕事を離れて専業主婦になりましたが、お気持ち的にはどうですか?
仕事は好きでしたし生き甲斐を感じてもいましたが、離れてみたら、おや、実は専業主婦向いているかも? と感じる毎日です。時間的にも気持ち的にも余裕ができたことで、以前はストレスに感じることもあった子供の泣き声や訴えに対し、成長したなぁとか、時間を気にせず接することができて幸せだなぁと思えるようになりましたね。

—これからお子さんたちに対して、伝えたいこと、願うこと、こんな未来にしていきたいと思い描いていることがあれば教えてください。
息子にも娘にも、自立して生きていく力を身につけてほしいです。それから、辛いことや苦しいことにも立ち向かえる強さを持ってほしい。下の子に関しては全介助なので、自立という意味では難しいかもしれません。でも、人に頼ることを恐れたり躊躇ったりせず、自らの表現方法で人の手を借りる力を身につけてほしいと願っています。

子どもたちが親からの愛情をしっかり受け止めてくれれば、この先何か問題にぶつかったとしても愛情が糧になり、苦しさを乗り越えてくれるはずです。いつか私も夫も、娘より先に旅立つときが来ます。親がいなくなった時、お兄ちゃんに変な負担を背負ってほしくないんです。だからこそ娘が他に頼る術を自分で身につけてほしいなと。その時いろんな壁にもぶつかるかもしれませんが、自分たちは愛情たっぷりに育ったんだという記憶が自信につながるといいなと考えています。

—最後に、牧子さんご自身の将来の夢があればお聞かせください。
‪もともと衣食住に興味があり、スペイン人の生活自体を楽しむというスタイルにとても共感していたので、私もそういう風に生きていけたらと思っています。今は東京に来て家事に時間がかけられ楽しい毎日を過ごしていますが、やはりスペイン語教師の夢も捨てられずにいます。もう少し子どもが大きくなり手がかからなくなったら、またそういう夢を見てもいいのかな、と思っているところです。‬‬‬‬‬

(本文おわり)

新本牧子さんから頂いた『ギフト』

1. 頑張ることが必ずしも美ではない。肩の力を抜きもっと今を楽しもうとすることも時には大事!

2. 何か辛いこと、どうしようもなく逃げたくなることが起こったときは、初めて娘と対面した日の気持ちを思い出して、自分を奮い立たせる。

3. 人に頼ることを恐れず、苦しいことや辛いことにも立ち向かえる強さを持った子どもに育ってほしい。いつか困難に直面した時、親から注がれた愛情がそれらを乗り越えるための糧になってくれるはず。

お話を聞いて

私の娘とほぼ同じ体重の娘さんを出産した牧子さん。実はまだ直接お会いしたことはないのですが、共感せざるを得ないお話ばかりで、涙を堪えるのに必死の2時間でした。

今の状況は「大変ですね」の一言では済まないほど、数々のご苦労もあるかと思います。でも、「子どもに恵まれたことは幸せ」と前向きに語ってくれる牧子さんの生き方や考え方は、私だけでなく日々多くの方を励ましていることと思います。

どのお話も考えさせられるものばかりでしたが、特に、お子さん二人とも愛情をたっぷり感じてもらえれば、いつかそれが困難にぶつかった時、乗り越えるための糧になるだろうという部分が印象的でした。

親になるって本当に、日々自分もたくましく成長することだと改めて教えてもらったインタビューでした。牧子さん、お忙しいなか貴重なお話をたくさん聞かせていただきありがとうございました!

新本牧子さんオススメの育児書

◇オススメポイント◇
主人や子供たちのお弁当を作る機会が多い時期に購入したのですが、色んな人たちの作るお弁当から垣間見えるそれぞれの家庭の味やこだわり、お弁当とともにある日常を紹介しています。お弁当作りを気負うことなく楽しめる本です。ぼーっと眺めていても楽しいです。続編も何冊か発行されています。


◇オススメポイント◇
春夏秋冬と発刊される雑誌で、子育て、家族とのかかわり方、家事のこと等、暮らしを心豊かにするヒントが満載です。


◇オススメポイント◇
息子が小学校に上がった時から、学校で読み聞かせのボランティアをしているのですが、絵本を選ぶときに参考にしています。絵本の紹介ばかりでなく、絵本作家の紹介や発達障害児と本とのかかわり方なども特集されており、毎刊興味深く読んでます。子どもたちからも「この本読みたい!」とリクエストもあり、家族が本好きになったきっかけをくれた雑誌です。

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